IIAS竹本修三フェロー研究会「京大地球物理学研究の百年(その2)」(2009年11月7日)


世話人会メモ


日 時:2009年12月11日(金)9:50〜17:10
場 所:国際高等研究所セミナー2室
出席者:廣田 勇、荒木 徹、竹本修三


(1)教室及び関係部局等の歴史に関して

[廣田] これまで2回の研究会で海洋の歴史が抜けている。野満、瀬野、速水、国司さん達による海洋・陸水分野の話も必要。

[竹本] 誰に頼んだらいいだろうか?

[廣田] 歴史学の基本概念として、「事実をして真実を語らしむ」と「歴史とは、日本書紀や平家物語、あるいは明治維新の薩長史観に象徴されるごとく、常に勝者の側からしか語られない」の二面性を強く意識して、年表(事実)記載と研究評価の両面から議論を進めるのがよいと考える。

荒木: 歴史記録には、下記が必要である。
1.事実の記録
   1.1 既存記録の収集整理:
       既存歴史記録の調査とリスト化
       歴代スタッフの在任期間年表
       論文・著作物リスト
   1.2 新事実の発掘・記録 (例:上賀茂傾斜計)
2.評価
   2.1 研究:論文リスト,引用数,賞,(例:前回廣田講演)
       質の吟味,専門家の評価
   2.2 教育普及活動・後進育成
   2.3 研究環境整備:
       組織(研究所・研究施設・観測所)整備
       学術会議・学外委員会・国内外学会等
       プロジェクト推進,他へのサービス
       技術開発・観測維持・情報処理

 業績の質の評価は、評価者・時代によって変わりうるので難しい面がある。
 「技術開発・観測維持・情報処理」に対する評価は,日本では一般に低いが,独立した専門家ポストを持つ米国に対して,テクニカルサポートの貧弱な日本の大学では,これらの仕事を研究者が引き受けざるを得ない。このような体制の違いも考慮する必要がある。


[竹本] 歴史記録には組織的な取り組みが必要である。現職の教員グループにお願いするのがよいと思うが、それもなかなか難しいので、地物同窓会にお願いしてみてはいかがか。地物同窓会のOBのなかから有志を募り、その人達を中心に教室の歴史についてのワーキング・グループを立ち上げ、資料検索等については現職の教員の協力も得ながら記録を整理するという案である。

[廣田] 研究内容評価以前の資料として、京大地球物理学分野におられた方々の記録(地位、在職期間、専門テーマ、論文リスト等)を残すのは意義のあることと思う。しかし、時代を遡って抜け落ちがないようにするのは大変な作業になるだろう。

[荒木] 最初から完全を求めると大事業になって,歴史記録は進め難くなる。出来ることから始めて,時間をかけて蓄積するのがよい。
 教室の歴史を語るうえで、技術サポートの面からの記録も必要だ。地磁気観測,地磁気データ交換のための計算機ネットワークやデータシステムの構築・改善に多大の貢献をして、2006年9月3日に58歳で亡くなった亀井豊永さんの追悼文集を出した(2009年1月)。これも歴史記録の一つである。IAGAは,彼の国際貢献を認めてメダルを授与している。


[竹本] 第一講座では上賀茂地学観測所に今井湊(いたる)さんがいた。今井さんは1906年生れで1990年に84歳で亡くなっているが、1951〜71年に上賀茂地学観測所の技官として勤務した。今井さんは、夜11時くらいからウィヘルト地震計の煤書記録を交換したあと、朝まで中国科学・技術史の文献を調べておられた。この今井さんについて、もう少し調べてみたい。

[廣田] 一時熱心に研究が行われたテーマで現在は姿を消しているものがある。これは、そのテーマがスタンダードテキストに記載されるまでにほぼ完成されたものか、それとも何らかの理由で後継者が育たなかったのか。もし後者なら、指導者と後継者のどちらの責任なのか、どのような人々が教官として在職していたのかを防災研究所も含めて知っておきたい。

[竹本] 防災研は、創立20、30、40、50周年史を出しているので、それから人事の異動を辿ることができる。

[廣田] このほか、工学部やRASC(超高層電波研究センター、今の生存圏研究所)などによる地球物理学研究の歴史の調査も必要である。

(2)国際性・普遍性について

[廣田] 例えば、中谷宇吉郎は、北大で地の利を生かして雪の結晶の研究を行ったが、研究内容はローカルなものでなく、国際性を備えていた。これに対して、京大の地物教室は国際性のある研究が少なかったのではないか。

[竹本] 京大地球科学研究の創設期における志田順先生の「志田数」や松山基範先生の地球磁場逆転の先駆的研究は世界に通用するものであった。また、1940〜50年代の佐々憲三・小澤泉夫による潮汐歪の世界初の観測などもMerchiorらによって評価されているほか、西村英一による満州国巴林における傾斜計観測の論文は、1950年にTrans. Am. Geophys. Unionに掲載された後、国際誌に多くの引用がある。

[廣田] 創設期はともかく、新制大学になってから1970年ころまでの京大地物教室は国際性が乏しかった。その理由・原因は何か。当時の事情をもう少し詳しく知りたい。

[竹本] 佐々憲三・三木晴男の対談でも述べられているが、佐々先生は、英語が苦手だったようだ。そこで佐々研究室の弟子達に留学を勧めていないが、西村英一先生は研究室の後輩の一戸、岸本、神月、三雲、中川さんを北米に留学させている。神月さんは、不幸にして米国留学中に亡くなったが、彼が生きていたらその後の京大地球物理学研究の歴史も変わっていたかもしれない。 Merchiorは、小澤さんを随分買っていた。1969年にルクセンブルグのWalferdangeにある地球動力学・地震学ヨーロッパ・センターに小澤式伸縮計を設置し、1994年に小澤さんがルクセンブルグ大公国より柏王冠オフィシェ章を授与されるように計らった。

[荒木] 電磁気で、長谷川先生とその門下の人達による「地磁気静穏日変化(Sq)の研究」は,歴史に残したい世界的な業績である。加藤先生に纏めて頂けば、良い記録になるだろう。前田先生は同世代の教授より国際交流に熱心であった。電磁気グループが早くから国際化していたのは、長谷川先生のメインテーマがSqであったことと関係があるように思う。

[竹本] この研究会の1回目で須藤靖明さん、2回目に石原和弘さんに、火山の話をお願いした。このなかで石原さんの話を聞いて、インドネシアの火山で観測網を構築した桜島観測所は立派に国際貢献を果たしていると思った。これは国際性という面から十分評価できると思う。RASCの津田さん達もインドネシアでがんばっているが。

[廣田] 中川一郎さんの国際重力結合という仕事の評価はどうか。

[竹本] 中川さんの環太平洋重力結合、日中重力結合の仕事も、相対重力計を持って短期間に大陸間を往復し、それまでばらばらだった大陸間の重力測定値を結合し、地域的な偏りのない統一した重力基準系の確立に貢献した功績は、国際測地学のコミュニティで高く評価されている。また、1980年代に超伝導重力計(SG)が米国で研究開発の段階から市販品として売り出されるようになったが、高価な装置だったため、稼動していたのは北米、ヨーロッパとアジアのなかでは日本と中国だけだった。中川さんは、あちこちに働きかけて、南極に1台、オーストラリアに1台、北極ニューオルセンに1台のSGを置く道筋を立てるとともに、京都の2台のSGのうちの1台をインドネシアに移設する計画を立てるなど、まさにグローバルなSG観測網の構築に貢献した。いま、SGネットワークのデータはGGP(Global Geodynamic Project)のもとに国際地球潮汐センター(ICET)に集められ、世界の研究者に利用されている。


(3)観測の問題

[廣田] 前回の総合討論でも議論された「京大は観測には熱心であったがその成果はどうであったか」ということ。特に固体地球関係では、大量のデータが宝の持ち腐れになっているという批判を他大学の研究者からしばしば聞く。

[竹本] 固体地球関係のデータのなかで、地震記象については、後世の人でも比較的利用しやすい。いま、防災研の阿武山観測所などで古い煤書記録のデータファイル化がすすめられている。それに対して、伸縮計や傾斜計は、方式がいろいろ異なるので、残されたデータを見ても、なかなか利用しにくいのが現状である。

[廣田] 一方で、電磁気学では地球規模の観測データを得ることの困難さがあったと聞く。それが地磁気世界資料センターの強い動機であったと理解している。

[荒木] 地磁気センター設立の背景になるICSUのWDC(世界資料センター)の歴史を纏めて月刊地球号外(No.58, 2008)に書いた。第1回極年(1882-83)、第2回極年(1932-33)、国際地球観測年(IGY、1957-58)の3国際共同観測プロジェクトには地球電磁気学分野の観測項目が多い。これは、この分野が太陽から地球までの広い領域のデータを必要としながら、気象や地震分野における気象庁、測地学における国土地理院のような現業組織のサポートが無い事に関係している。日本のWDCは全て地球電磁気学・太陽地球系物理学(STP)関係のものになっている。用いる人工衛星も実用衛星(旧NASDA系)ではなく研究観測衛星(旧宇宙研系)で搭載機器の設計製作から観測データ取得・データ処理まで全てを研究者サイドで行っている。
 一般に日本のデータ体制はアメリカに比べて遅れている。地磁気センターのスタッフは、WDCの整備、測地学審議会建議へのデータ体制改善の提案、学術会議の理学データネットワーク推進小委員会活動、インターネット普及前の通信ネットワーク構築など、体制改善の努力を続けてきた。


[廣田] 気象分野では、自前で測ること以上に、気象庁に象徴されるデータ活用のシステムに恵まれていた。しかし、重要なことは、「観測」の意味と意義である。単なる測定(データ取得)の段階で満足していたふしは無かったか。真の観測の意義は「発見的研究」か「立証的研究」のいずれかでなければならない。このことは、現在の「インターネット世代」への警鐘でもある。

[竹本] データ流通が進んで、生産に直接関与しない者がデータを使えるようになると、新たな問題が出てくる。現記録を扱ったことのない者が、ディジタル化されたデータだけを見て、観測精度の限界を超えたところでの無意味な議論をするようなケースが見受けられるので、十分注意しなければならない。


(4)教室拡充への努力

[荒木] 歴史を掘り起こす際には,輝かしい正の歴史だけではなく負の歴史も記録することが大事だと思っている。教室の人事・運営面で反省すべき例として、下記のことがある。
(1) 1960年代初めに,東北大・東大・名大・京大工に Space Physics関係の学部付属研究施設が出来たのが,京大理だけがこれに対応できなかった事、
(2) 他学科、他大学が済ませた学部の改組拡充を京大の地学系だけがしなかった事、
(3) 地震学講座、物理気候学講座増設の際に学部学生定員をつけなかった事、
(4) 大学院重点化の際に、修士定員を48とした事。
(2)-(4)は、今も議論されている修士定員削減問題の原因にもなっている。



(5)大学紛争の影響

[廣田] いわゆる学園騒動のあった1970年頃の雰囲気が研究に及ぼした悪影響を現在の目で正しく批判すべきである。

[竹本] その時代の固体地球物理分野では、和田卓彦さんの影響力が大きかった。私も批判されて右往左往した経験がある。和田さんは、こちらの認識の甘さを1つ1つ鋭く追及してきて、言われたことに反論できない。和田さんは、すごい人だと思った。同じ八高出身の熊沢峰夫さんも和田さんのことを高く評価していた。和田さんが定年後、これまでの思索を本に纏めて、本にしてくれるだろうと期待していたが、何も残さずに亡くなってしまった。

[廣田] 地団研にからむ地物と地質の断絶の根源もそのあたりにある。第2回研究会の大陸移動説の話で、尾池氏はそのことに触れなかったが、プレートテクトニクスの考え方が京都で受け入れられなかったことは実に深刻な問題である。

[竹本] 2002年3月に地鉱教室の80周年記念「教室の近況:最近5カ年」の冊子が出版されたが、そのなかの「教室の沿革」の章で、“1971年、岩石学講座に早瀬一一、物理地質学講座に笹島貞雄が教授就任した。”との記述がある。そのあと、“1978年、鉱物学教室では1961年以来空席だった教授に森本信男が大阪大学から転任、1981年、金沢大学から坂野昇平が岩石学講座に、1986年に東京大学から鎮西清高が地質学講座に教授就任した。1989年、西村進が物理地質学講座の教授に昇任し、1990年に志岐常正が教授昇任した。”と述べられている。1971年から1978年まで教授人事が動いていない。
 プレートテクトニクス批判の頂点にいたのがソ連のV.V.ベロウゾフである。この頃、私も和田さんからベロウゾフの本を読めと言われ、地団研グループが訳した日本語の本を読んだ。70年代の地鉱教室は地団研の人が多かったので、京大でプレートテクトニクスが受容されるまでに大分時間がかかった。このことによる研究の立ち遅れは痛い。しかし、プレートテクトニクスも1つの仮説であり、プレートテクトニクスでは説明がつかない観測事実もいろいろある。これを踏まえて、プレートテクトニクスを超えるモデルが京大から生れることを期待したい。



「付記」 これは第2回セミナー終了後にまとめた議論であり、第3回セミナーの内容も含めた全体の総括は更に行なう予定である。

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