&1 Sq(静穏日地磁気日変化)の研究1.研究のはじまり 京大で地球電磁気学研究をはじめたのは、長谷川万吉先生である。これ以前この研究が皆無ではないが、国際的に認められる成果を挙げ、論文として國際誌に載った研究は、彼の仕事が初めてである。1936年、彼が京大地球物理学教室の助教授のとき、静穏日地磁気日変化(Sq)に関する研究が英文の論文として、帝国学士院紀要(Proceeding of Imperial Academy, Tokyo,1936) に載った。これは東京帝国大学名誉教授で貴族院議員である田中舘愛橘先生の推薦によるものであった。
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新しく命名されたSpace Physicsは、われわれ若い研究者には、まことに新鮮な響きをもった。この学問の定義ははっきりしないが、天気を支配する対流圏の上の大気を研究対象とする研究と言えるだろう。地球外、惑星、太陽まで広がる宇宙空間スペースそのものだけではなく、スペースに地球大気がどう繋がっているかを研究するのが、この学問の研究の立場だ。この研究は電離層研究の発展として始まった。電離層から上に向かうものと、下に向かう2つの研究の流れができた。京大工学部の前田研究室はこの2つの流れに乗った。 前田憲一先生は京大に赴任した1951年以後、木村磐根氏と共同で、電離層研究特に電離層・磁気圏の電波伝搬の研究をしたほか、日本でのロケット・衛星観測の創始者として活躍した。この観測研究では、大林氏が前田先生、木村氏の密な協力者であった。大林氏は米国での滞在中の知己も多く、米国衛星の磁気圏観測の情報に大変詳しく、その情報をいち早く、日本の若い研究者に知らせ、彼らを魅了させ、space physics研究の熱意を高めた。この業績は大きいと言える。 木村氏の研究で特筆すべきは、磁気圏電波伝搬、特にホイッスラーと呼ばれる雷放電で作られる超低周波電波が電離層のカット・オフ周波数でありながら、地磁気磁力線に沿って、磁気圏深く浸入する特異性を詳細に研究した。米国学者の発見による現象だが、彼の初期の研究とは大きく違い、磁力線から大きくずれる可能性、そのずれの条件が磁気圏電子密度と如何に関わるかなど、木村氏の研究は大きな発見になった。これはRadio Science(1966)に論文として載っている。 MUレーダーと名づけたこのレーダーは、直径100mの円形の人工盆地に、約500本の3素子八木アンテナを並べ、各アンテナが小型送受信機をもつアクチイブアンテナアレイ・システムだ。1メガワットの巨大パルスを打ち上げ、高さ数kmから500kmまでの大気から、散乱し、戻ってくるドップラーエコーを受信する。このドップラーエコーのスペクトルが散乱大気の運動の情報を持っている。これは星から来る光のスペクトル解析に似ている。MUレーダービームは、計算機制御で、瞬時に向きを変えることが出来るので、変動、移動する大気運動の追尾可能で、世界最高の能力をもつMST(中間圏、成層圏、対流圏)レーダーとして、国際的に高い評価を頂き、稼動以来25周年を迎えた今でも活躍している。昔、長谷川先生が発見したSq電流渦中心の日日変動の原因は、地上近くから電離層まで伝播する大気潮汐の変動によると判明した現在だが、この原因の途中の変動する大気運動をしらべることもできる。 思えば、前田憲一先生に雇われ、電離層観測機組み立て要員に始まる10年余の工学部生活で得た著者の経験、工学者に囲まれていた環境。これがあったからこそ、MUレーダーは生まれた。でも、長谷川研で、大気波動を研究してきた著者がいなかったならば、工学部にMUレーダー建設の構想など生まれるはずもない。かくして、遂に、理学・工学の融合で、Sq研究は観測的証明にまでたどり着いたのだ。工学部は私の新天地になった。MUレーダー観測は、大気潮汐波、重力波を含む中間圏大気力学の観測に世界最高の威力を発揮しただけでなく、身近の気象観測にも重要な貢献をしている。これら潮汐理論とMUレーダ開発研究が、2つの賞の対象になった。一つは1987年の Appleton 賞(Royal Soc、London)であり、他の一つが日本学士院賞(1989)だ。 深尾、津田両氏は私の参謀としてMUレーダー建設から、完成後の観測システム運用にも活躍して来た。彼等の活動はさらに広がってゆく。 赤道大氣運動がグローバルな気候変動の原因になるので、その赤道大氣観測のため、MUレーダー建設に次ぐ赤道レーダー(EAR)建設を計画した。ここでは、深尾氏が計画遂行の中心になった。計画は1985年に始まったが、1990年代の経済バブル消滅の影響もあって、長らく計画推進は止まってしまった。この時、すでに停年を過ぎていた著者は、インドネシア共和国のバンドン工科大学で客員教授としてバンドンに住み、EARの実現、その活動時代到来に備えて、EARを使う大氣科学技術者を養成することに努めた。妻と一緒にインドネシア語を本格的に学んだ。これは著者夫婦には楽しい日々であった。この時、欧米から輸入の参考書が高価でインドネシアの学生には向かないので、それまでなかった彼等の言葉で書かれた大氣力学・レーダー観測の教科書をバンドン大学での助手2名と共著で、出版する計画を建てた。バンドン工大所属の出版社に出版をお願いした。が、運悪く、丁度政情が悪くなった1990年代末なので、出版は絶望だと知らされ失望のどん底に一旦立たされた。だが、幸運にも、出版援助を申し出た現地新聞社のおかげで、出版は成功した。心あるマスコミがインドネシアにも存在する事に感激した。 われわれの努力はどうやら報われる時が来た。これは計画から16年後の2001年だった。EARはインドネシア・スマトラ中部にあるブキット・チンギ山頂に建設された。MUレーダーの約10%の出力だが、赤道にあるユニークなレーダーなので、赤道大気力学、電離層力学の観測研究のためにand躍している。この活動を支える津田氏とさらに若い同僚後輩の力を高く評価したい。 |