IIAS竹本修三フェロー研究会「京大地球物理学研究の百年(その2)」(2009年11月7日)


国際気象界のなかの日本 ・・・京都から何が発信されたか
廣田 勇(理学研究科名誉教授,1974-2001在職)


廣田 勇

1.はじめに

 第1回セミナーの後の総合討論のなかで、「この京大地球物理学百年の歴史の議論は、当事者の単なる内輪話や想い出話であってはいけない。先達の足跡を正しく評価し次世代の人々への教訓を伝えるものでありたい」とのコメントを述べた。その主旨から、本講演では話を京大内部に留めず、20世紀後半における世界の気象学のなかにあって我が国の気象学・大気科学の研究はどうであったか、そして京都大学は如何なる貢献を為し得たかを「国際性と独自性の相克」という視点から議論を行うこととする。議論の性格上、先輩同輩諸氏に対し礼を失する部分もあろうかと思うが、うわべだけの綺麗事では意味がないと考え、敢えて厳しい批判を行うことを許されたい。もとよりこれは講演者の主観的かつ独断的な評価であるが、歴史的事実には忠実なつもりである。(以下、人名の敬称は略させていただく。)

2.国際性とは何か

 自然科学としての気象学・大気科学はその研究対象と法則性の両面から見て、国境のない学問であることは言を俟たない。その点、万葉集や源氏物語の研究とは異なり、特定地域内のみに留まっていることは許されない。その研究テーマには普遍性が求められる。しかし一方、昨今の「国際性」が安直な「国際一様性」であってはならない。そこには研究上の発想や手法における独自性があらねばならない。
 研究の国際性を問う視点としては、まず成果を国際学術誌や国際研究集会の場で発表すること。その成果に対する評価はたとえば招待論文、招待講演の形で現れ、次いで国際学界での各種学術委員会役員等の指導的立場に繋がる。
 しかし最も重要な学問上での評価とは、その成果内容が国際的論文やスタンダード教科書等で数多く引用され後続の研究に強いインパクトを与えることであろう。その意味で、京都からの発信内容が日本国内のみならず世界で正しく受信されたかどうかが厳しく問われなければならない。

3.二十世紀中葉の国際国内状況

 私の専門とする気象力学について言えば、二十世紀前半の世界的な大きな流れとしては、ノルウェー学派による総観気象学(前線・低気圧論)に端を発したシカゴ学派の気象力学(ロスビー波、大循環論)、それを受けた戦後の傾圧不安定理論と準地衡風方程式系の整備、そしてプリンストングループによる数値天気予報技術の確立などが挙げられる。
 これに対し、我が国の気象学は、岡田武松時代の西欧学術文献直輸入を別として、北大の中谷宇吉郎による雪氷学・雲物理学、東北大の山本義一による大気放射学・乱流論、東大の藤原咲平・正野重方による気象力学、の三つの拠点によって成り立っていた。1940年代の第二次世界大戦による日本の国際的孤立状況はあったにせよ、上記の諸先達(およびその高弟たち)の仕事は国際学術誌を通して1950年代には既にかなりよく世界に知られていた。
 当時の学生が勉強した気象学教科書も、中谷の「Snow crystals:1954」、山本の「大気輻射学:1954」、正野の「気象学総論:1958、気象力学:1960」などが中心であり、これらのテキストはその後、小倉義光「気象力学通論:1978」や東大出版会の「大気科学講座全4巻:1982」が出るまでの約20年間に亘り、次世代研究者群の育成に大きな貢献をした。

4.戦後日本で開かれた国際学会

 上に述べたように東大の正野の率いるグループの力学研究が世界的に知られていた証しとして、1960年に東京で開かれた国際数値予報シンポジウムは特筆に価しよう。これを契機にして、後に「正野スクール」と呼ばれるようになった後継者たちの多くがアメリカで指導的な地位を確立する優れた研究を行ったことは良く知られている。
 同様に、中谷の雪の研究が国際的に高く評価された結果、1965年に東京と札幌でIAMAPの国際雲物理学会が世界中から250人もの参加のもとに開かれた。この成果はその後二十世紀後半に至るまでの北大を中心とした雲物理学研究の盛隆をもたらした。
 これに続いて、1968年にはCOSPAR研究集会が東京で開かれ、従来の対流圏気象学とは違った飛翔体による高層大気気象学発展に刺激を与えた。1972年には山本義一教授退官記念として大気放射国際研究集会が仙台で開かれた。この研究集会も、当時出始めた人工衛星赤外放射観測の意義を我が国に強く印象づけるものであった。
 翌年の1973年にはIAGA国際研究集会が京都で開かれたが、残念ながら日本の気象界の直接的な関与は薄かったと言わざるをえない。日本気象学会がホスト役をつとめたIAMAP総会が横浜で開かれたのは、それから20年後の1993年のことである。

5.気象学と超高層物理学との融合

 本論では、ここではじめて「京都大学」の名前が登場する。
 前節でも触れたように、1960年代の大気科学の世界的動向としては、北半球中緯度域の対流圏気象から、成層圏中間圏、熱帯赤道域へと視野を広げはじめていた。その背景にはIGY以降の全球観測・衛星観測・数値モデリングの目覚しい発達があった。
 このような時代の中にあって、我が国の大気科学にとって特筆すべき出来事が1966年に京都で開かれた「中間圏電離圏大気力学研究会」である。主催者は京大の加藤進と前田坦、九大の澤田竜吉の3教授。この研究会は、それまで同じ地球物理学の中にあって諸般の事情から別分野として交流に欠けていた気象学と超高層物理学とを結びつけて新天地を開拓しようとする意欲的な試みであった。主な出席者としては、京大の前田憲一、木村磐根、東大の福島直、等松隆夫、東北大の上山弘、若手グループには松野太郎(九大助教授)、瓜生道也(九大助手)、田中正之(東北大助手)、廣田勇(東大助手)、深尾昌一郎(京大院生)らがいた。
 取り上げられたテーマは、大気潮汐波やプラネタリー波の上方伝播、赤道QBO、成層圏中間圏における放射熱収支、様々な電離層擾乱、等々まさに1970年代末から始まったMAP(中層大気国際共同観測計画)の理念を10年以上も先取りしたものであり、主催者である加藤・前田・澤田の三氏の先見の明を如実に物語る画期的な研究集団の結成であった。これ以降、日本国内での地球電磁気学分野と気象学分野の間の壁が取り払われたと言ってよい。
 この研究会は以後数回開かれ、やがてそれは宇宙科学研究所で毎年開かれるようになった「電離圏・大気圏シンポジウム」の母体ともなった。

6.国際学会への参画

 私が東京から京都に移ったのは1974年の春である。京大地球物理学教室に来て真っ先に感じたことは研究における国際性の稀薄さであった。当時、世界に目を向けることを率先して行なっていたのは第5講座の前田坦教授で、彼はその後もIUGGの開かれた年には教室からの出席教官による学生院生向けの報告会を主催するなどして世界の風を教室に導入する努力を怠らなかった。
 私自身も70年代からIUGG・IAMAP・COSPAR等の気象学関連国際会議に積極的に参加していたが京大からの気象分野参加者はむしろ稀であった。現在のように大学院生も含め科学研究費を国外旅費に使える時代とは違って、旅費の確保も大変な仕事で、毎年のように文部省海外国際研究集会出席旅費申請書を書き、通算すれば7,8回ほど貰った。80年代には博士課程の大学院生にも国際研究集会での論文発表を経験させるため、校費を使ってデータ整理アルバイトの名目で彼らの旅費の一部を捻出する苦労もあった。今にして思えば申し訳ないことであるが、「国際会議出張」のことを他意は無いにせよ「海外旅行」と言った事務員を叱りつけたことさえあった。
 しかし大切なことは、このような国際学会出席の意義である。昔のオリンピックのように「参加することに意義がある」のではなかった。出席する以上は、必ず自分なりに納得できる研究成果を発表し、帰国後はそれを国際学術誌に投稿・印刷することを実行してきた。そのような蓄積は、先に述べたように、次回の会議での招待講演となり、MAPの国際委員会(SC)メンバーに選ばれたりIAMAP国際運営委員会(EC)をつとめたりすることに繋がった。
 肝心の研究に関しては、京大着任以後、主として中層大気力学・大循環のテーマで外国の真似事ではない独自性のある成果をQJRMS・JAS・JGR・JATP・PAGEOPHなどの国際学術誌に発表してきた。また、それらの研究テーマを学ぶ中から現在各大学の気象学教授として活躍中の後継者群が育ってくれた。
 国際学界における研究成果の自己評価は本来的に困難であろうが、ひとつの目安として、現在でも中層大気科学のスタンダードテキストであるAndrews, Holton, Leovy の Middle Atmosphere Dynamics(1987)の引用論文リスト約350編のなかで自分の論文が図表とともに7編含まれている。これは全引用論文数の2%に当たる。この2%という貢献率が大きいか小さいかの判断は他者に委ねよう。

7.京都大学の気象学研究(気象学講座以外)

 前節では主として自分の仕事について述べたが、この節では1970年代以降の京都大学における気象学研究について簡単に触れる。(私の京大着任以前の状況については第1回セミナーでの山元龍三郎教授の講演を参照されたい)。
 超高層電波研究センター(RASC,現在はRISH)では加藤進教授の指導下でMUレーダーに代表される高層大気観測を中心とする成果が挙げられている。従来は同じ地球物理の中でも地球電磁気学分野に属していた深尾昌一郎・麻生武彦・津田敏隆・佐藤亨・中村卓司・山本衛らが大気科学としての多くの世界的業績を発表してきた。工学部電子工学技術と理学的地球科学とを見事に融合させた点は高く評価されてよい。
 防災研究所では光田寧が「超音波風速計の開発」という画期的な業績を挙げ、大気乱流測定の指導的役割を果たした。後に健康を損ねられたのは残念であったが、最晩年には中国大陸を舞台としたHIFEプロジェクトの立案指導も行った。その仕事は現在石川裕彦によって引き継がれている。
 超音波風速計はその後、様々な場所に生かされているが、肝心の大気乱流論そのものを発展させる後継者が気象学会内に育っていないのは惜しまれる。
 防災研究所のもうひとつの部門では中島暢太郎教授の後を継いだ村松久史と岩嶋樹也が京都盆地を中心としたオゾン・メタン等の大気汚染成分測定を行ったが、在職期間が短かったためもあり研究分野確立・後継者育成までには至らなかった。この部門では現在方針を変え、向川均による延長数値予報(非線形システムの予報可能性)の研究が成長しつつある。
 理学部では1981年に下賀茂気象学特別研究所が気候変動実験施設に格上げとなり、山元教授が施設長として蹴上の花山天文台の隣に新築された理学部付属施設で気候変動の統計的研究を開始した。当時まだ地球温暖化という言葉が一般に普及していなかった時代にあって、地球全域および海上船舶の気温データを集積し長期間に亘る地球表面温度の変動解析を行なった。その結果から、長期トレンドや長周期変動とは異なった特異な変化「気候ジャンプ現象」を発見するなどの成果が挙げられた。しかし、この実験施設は10年の時限付きであったため、山元教授の退官後その路線を継承発展させる人材は出なかった。
 気候変動の研究は、その後、21世紀地球温暖化予測という社会的要請に対応して東京を中心とした幾つかの研究機関でいわゆる数値気候モデリングが行なわれているが、スーパーコンピューターに象徴される技術作業的色彩が強い。
 1991年に気候変動実験施設が終了時限を迎えたとき、そのポストを地球物理学教室の新講座に振替えることにより第7講座として「物理気候学講座」が誕生した。担当者には筑波の気象研究所から木田秀次が教授として着任し、既存の気象学講座のメインテーマである「グローバル気象力学」と相補的な「局地気候学」を主たる研究課題とした。しかし、これまた残念なことに、木田教授の在職期間が短かったことと健康上の理由から、京大では見るべき成果を残さないまま終った。
 今世紀に入ってからの京都大学の気象学の現状と将来展望は第3回セミナーの余田成男教授の話に委ねよう。

8.日本気象学会の顕彰に於ける京都大学

 研究成果の評価を示すもう一つの具体例として、この節では日本気象学会が授与する4種類の学術賞について、京大関係者の受賞を調べてみる。選択基準は「主として京都大学在籍中に行なった研究に対する評価」であり、私の学会賞(1976)のように受賞時は京大在籍でも仕事は東京時代に行なったものは除外してある。

日本気象学会賞(1954年以来授賞総数87件):研究成果の表彰。
  山元龍三郎(59)、光田寧(71)、廣岡俊彦(91)、余田成男(92)、佐藤薫(98)、塩谷雅人(02)、津田敏隆(03)

藤原賞(1963年以来62件):長年に亘る功績の表彰。
  加藤進(82)、山元龍三郎(93)、光田寧(96)、廣田勇(08)、深尾昌一郎(09)

堀内賞(1988年以来39件):他分野から気象学への貢献の表彰。
  深尾昌一郎(88)、山田道夫(92)、津田敏隆(94)、橋口浩之(08)

山本・正野論文賞(1980年以来44件):新進の論文の表彰。
  矢野順一(88)、向川均(90)、佐藤薫(91)、堀之内武(98)、田口正和(04)

 このリストから、気象学会全体の表彰件数に対する「京都大学からの受賞」がほぼ10%であることがわかる。各種の賞の選考には異論や問題が多々あるにせよ、気象学会では担当理事を含め数名の選考委員会が会員一般からの公募推薦に基づいて厳正に決めているのであるから、これは客観性のある資料である。
 つまり戦後の日本気象界において京都大学が占める貢献度は全体の10%である、と判断される。
 いささか余談にわたるが、この数字を他の機関と比較すると、気象学会賞に関して、気象庁職員(含気象研究所)は約30%(ただしこれは研究者母集団が大きいため当然とも言える)。大学では東大が約20%を占めているが、本郷の地球物理教室気象研究室について見れば、その殆どが1950-70年代の「正野スクール」のメンバーであり、80年代以降は皆無に等しい。これは、80年代以後、先述のように時流を追って地球環境問題にばかり目を向け、学生院生の教育をおろそかにした結果と言わざるを得ない。大学理学部は学問の基本をしっかりと教え後継者を育て上げる場のはずである。

9.地球科学に「京都学派」はあるか・・・まとめにかえて

 本論の中心は京大の気象学研究の歴史における「国際性と独自性」を問うことであった。臆せずに断言するなら、国際性つまり研究上での対外発信が行なわれるようになったのは1970年代以降のことである。しかしこれは、それ以前の時代の諸先輩を非難することでは決してない。たとえば、明治維新後の我が国が西欧の学術文化を急速に取り入れて国際社会の仲間入りが出来た背景には、江戸時代の士族の高い教育・素養があったからである。それと同様に、京大地球物理学の基礎を築いてくれた志田順を筆頭とする諸先達の蓄積があってこその近年の発展であることを忘れてはならないであろう。
 むしろ問題は、「先進国に追いつけ追い越せ」といったような安易な国際性ではなく、本当に独自性のある研究成果を京都の地から国内外に向けて発信しえたか否かを厳しく問うことである。
 京都大学には「京都学派」と呼ばれた学問分野がいくつかある。しかしながら、西田哲学は別格としても、俗にいう京都学派の意味合いには独自性の評価とは異なった胡散臭さが拭えない。それは「京都vs東京」という構図である。
その証拠に、日本の各大学には(たとえば北大中谷宇吉郎の雪の研究のような)優れた研究が多々あるにもかかわらず、「札幌学派」とか「仙台学派」といった呼び名は存在しない。またそのような名前で呼ぶ必要もない。つまり、京都が東京に敵愾心を燃やすことに意義は認められない。(きわめて通俗的な譬えでは、私はプロ野球の阪神ファンは認めるがアンチ巨人という態度は蔑視する)。
 このような傲岸不遜な発言をするのは、私自身が北海道で生まれ育ち東京で勉強し京都で仕事をしたという「土着性の無さ=自由な異邦人」によるものとお許しいただきたい。この講演を引き受けた真意も実はその点にあった。

 最後にもう一度、これからの京都大学にあって新しい気象学を背負ってゆく次世代に向けてメッセージを贈ろう。

  世界に目を向けよ、しかし時流に追従するな!

  他人のやらないことをやれ、しかし京都盆地に籠るな!

(終り)



廣田講演のpdfファイルはこちらからご覧いただけます。



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