研究会『京大地球物理学研究の百年』
総合討論  司会:荒木 徹



[はじめに]

荒木徹:それではご指名により総合討論の司会をさせていただきます。時間は17時までということで、1時間程度ありますが、まず今日講演をしていただいた6人の方のなかで、もうちょっと補足したいということがございましたら最初にお話しいただき、次に参加者の皆さんからご質問やコメントをお受けしたいと考えています。そして最後に、この研究会を今後どうするかということについて、ご意見を承りたいと存じます。


[大気変動]

山元龍三郎:先ほど話にちょっと追加させていただきます。1つは、台風の構造の話をしましたが、あれは学会としての定説というわけではなく、ああいう解析が大学の研究として残っておりますので、そういう例として紹介しました。それからもう1つ、核爆発に伴う大気波動の話をしましたが、むかし、西村英一先生から呼ばれて第一講座のセミナーに出たことがあります。私自身は固体地球の研究には関係してないので何だろうかと思ったのですが、地表面で同じような波動が観測されていて大気波動とのつながりを知りたいということだったようです。

加藤進:山元先生にお聞きしたいのですが、あのころ気象の分野に中島暢太郎先生がおられました。中島先生の研究は滑川先生の系列というか、流れとは外れるのでしょうか。

山元:先ほど4つのテーマの話をしましたが、その4番目で中島先生の研究にも触れました。時間がなかったので、詳しくは紹介できませんでしたが、中島先生は三高、京大では山岳部に属し、その後も京大山岳部の部長として活躍され、山の気象、山岳気象についての多くの成果を挙げておられます。日本気象学会の会誌に中島先生の愛弟子である名古屋大学の安成哲三さんがこのあたりの中島先生のご業績について書いておられます。

荒木:核爆発に起因する変化については、前田先生も関係ある地磁気の現象を見つけられたと思っているんですが、同じ核爆発だったのでしょうか。山元先生はご存じないでしょうか。

山元:私自身はその見地からの研究はしておりませんが、核爆発は上の方の地磁気にも影響を及ぶすわけですね。その結果として地磁気関係の貴重なデータだったと思います。

★★★コメント★★★
前田先生の発表は、昭和37年のジョンストン島超高層核実験(300km)に関する地磁気変化による地磁気変化ですから違う状況です。超高層での爆発だから変化が出たので、大気圏内核実験では(当時の観測精度では)地磁気変化は検出されていません。(2009年8月5日:徳田八郎衛)
余田成男:最近の研究を紹介させてもらいますと、齊藤昭則さんが2006年の北朝鮮の核実験の直後に日本の上空約300キロの電離圏で電子数の変動があったことを解析から明らかにしています。微気圧計に関しては家森さんが特徴ある研究をやっていますし、あと酒井君もやっています。今度7月22日に日食がありますが、科学研究費の挑戦的萌芽研究という新しい枠組みのなかで、Moriさんの守備範囲なんですが、電磁気の観測だけでなく微気圧計も持って行って観測しようとしています。家森さんが何で微気圧計にはまられたかというと、スマトラ沖大地震のときなんですね。そのとき当然大きく揺れたわけですが、電離層が攪乱されてそれが大気の音波として伝わってきた。そういう経緯があって微気圧計の観測に力を入れています。Moriさんも金森さんと地震計を用いて地震の際に気圧波を観測されたそうですね。

Jim Mori:火山です。

三雲健:先ほど山元先生が第一講座のゼミで1954年のビキニ環礁の核爆発のときに観測された気圧波の話をされたということを言われましたが、私はそのお話は初めてで、印象深く伺いました。私もその後、1964年のアラスカ地震のときにBerkeleyで観測された気圧波を解析したことがあります。最近では2004年のスマトラ沖大地震のときに各地で観測された気圧波を調べました。家森さんはむしろ上の電離層との関係ですが、私の方は微気圧計で観測された気圧波のsourceつまりこの大地震の際の地殻変動との関係を議論しました。この時の上層大気中の気圧波の伝播に関しては、山元先生が描いておられた図形をもう少し詳しくフォローしたということになるわけです。

山元:私自身が大学院の学生のころで、何でまた西村先生が固体地球の研究室のゼミで話をせよとおっしゃるのか、よくわからなかったのですが、一応効果はあった訳ですね。

荒木:私は家森さんに山元先生のところへ聞きに行けと言ったのですが、いきませんでしたか?

山元:いや見えましたけどね、あまり適切なアドバイスをできませんでした。

荒木:上層大気の変化についてはGPSでも観測できるようになっていますね。

Mori:三雲先生のお話に関連して、気圧から地震波(地面振動)が出るのも結構あって、火山噴火に伴う気圧変動からも地震波が観測されています。家森さんは、地震動から大気音波が出て、それが伝わって電離層の電子密度が変化するということを調べています。それでいま、大志万先生と観測計画を話し合っています。

荒木:気圧変動が議論になっていますが、他のテーマでも何かありましたらどうぞ。


[微小地震]

津村建四朗:佐納さんの長谷川萬吉先生についてのお話で、微小地震という言葉がでてきたのですが、具体的にどういう内容を指しているのでしょうか?微小地震の研究は戦後本格的に始まったのですが、それよりずっと昔の話ですね。

佐納康治:志田先生が1927年(昭和2年)の北丹後地震より前の1922年(大正11年)に微小地震の観測を目的として、長谷川先生らに感度が数万倍の高精度地震計の研究製作を指示したという記録が京都帝国大学史(1943)にあります。従って京都帝国大学では1922年には「微小地震」という言葉が使われていたようです。具体的な言葉の意味は今とは違うかも知れませんが。

竹本修三:津村先生にお伺いしますが、「微小地震」という言葉が一般的に使われるようになったのは、地震予知計画が発足してからでしょか。それとももっと前からでしょうか。

津村:もっと前からです。浅田先生と鈴木次郎さんが福井地震の余震観測のときに「微小地震」という言葉を使っています。

荒木:三雲先生、微小地震について何かございませんか。

三雲:私達は1956頃から数年間、和歌山地方でその頃頻発していた小さい地震の観測をしましたが、当初は地震計の感度もあって“微小地震”という言葉は使わず、和歌山の局地地震あるいはlocal earthquakeと呼んでいました。“微小地震”という言葉はやはり先ほどの津村さんの説明のとおり、浅田・鈴木が観測された程度の規模の地震を指すものと思います。その後われわれの観測の感度が向上するにしたがって、微小地震あるいは極微小地震という言葉も使い始めましたが。


[世界のなかの日本、日本のなかの京都]

廣田勇:少し違った立場から意見を述べます。1回目の今日、いきなりこんな質問、あるいは希望を出すのは無茶だと承知のうえで申しあげるのですが、2回目以降があるということなので、そこにつながるつもりで話をさせていただきます。今日初めて聞く話がたくさんありまして、私自身非常に参考になりましたが、京都大学の地球物理の歴史と、それを踏まえて、もう1つ、そのバックグラウンドを成す日本全体の地球物理学の歴史とを対比させて議論するとよいと思います。さらに欲張れば、それぞれの時代に応じて、国際的というか、世界全体で各テーマの研究の進捗状況がどうであったかというところまで踏み込んだ議論がでてくれば、より意義があると思います。そういう意味で、敢えてひとつ質問をさせていただきます。これは佐納さん、あるいは、加藤先生にお聞きしますが、長谷川先生がドイツから電磁気学のテキストをたくさん持ち帰られたということですが、その当時の国際的なスタンダードな教科書というのはどんな人が書いて、どの程度のレベルのものだったのでしょうか。その本というのは今でも残っているのでしょうか。

加藤:そうですねえ、私は長谷川先生がドイツからどんな本を持ち帰ったかわからない。ドイツ語でしょうな。長谷川先生の仕事はChapman先生のGeomagnetismの本に延々と出てますが、あれは田中舘愛橘先生が推薦し、学士院紀要(英文、Proceedings of the Japan Academy)に載せた長谷川先生の論文がChapman先生の目にとまり、Bartels先生と共著のGeomagnetism の中で、紹介したのです。

佐納:今の廣田先生のご質問に関して、太田柾次郎先生に書名をお伺いするのを忘れたのですが、昭和6年からのゼミで長谷川先生が持ち帰った本をかたっぱしから読んだという話を太田先生から聞いております。電磁気関係の本を、多数というのはどのくらいかわかりませんが、ともかく長谷川先生が持ち帰えられたそうです。

廣田:一応その書名なんかは、わかっているのですか。

佐納:どういう本だったかは、お聞きしておりません。

廣田:くどいようですがこういう質問をしたのはですね、今日のお話に出た京都の諸先輩が非常に独創的に立派なお仕事をされたということはよくわかります。しかし、その一方で、客観的に見た場合、昭和のはじめころの日本のサイエンスの力量というのは必ずしもすべての面において世界のトップではなかったということですね。そのギャップの問題がある。この2つをわれわれが今、どう理解したらよいかということです。

加藤:私は去年、仙台で学会があったときに、1日サボって田中舘愛橘記念科学館に行ってきたんです。先生の故郷の岩手県二戸市にあるんですが、そこに日本の最初のころの物理学、地球物理学の歴史がずっと出ているんですね。田中舘愛橘先生や寺田寅彦先生などに続く人達の業績がよくわかる。その源流を作ったのは田中舘先生でしょうね。田中舘先生には美稲さんという娘さんがいて、『私の父、田中舘愛橘』という本を書いています。本当は著者というより編者なんですが。この娘さんが田中舘先生の外国出張には必ず付いて行ったんですね。この本に田中舘先生の人柄やいろんなエピソードが書かれていて、地球物理の歴史を知るうえでもなかなか興味深い。お弟子さんである東北大学の中村左衛門太郎先生によれば、「会った人は誰でも、田中舘先生に可愛がれていると思う。若い人でも一度先生に何か伺った途端に、みな先生の直弟子になったような気持ちになる」と言ってます。先生は95歳まで活躍されたんですね。

荒木:すごいなあ。田中舘先生は国際的にも活躍されましたね。IAGAの前身であるIATMEの初代委員長もされています。


[高圧実験]

田中寅夫:島田さんにお伺いしたいのですが、愛媛大の入船徹男さんも出たわけですね。その前に高圧と言えば阪大の川井直人先生がいました。われわれでいえば、愛媛大の西武照雄先生が高圧実験の場所を作ったということなども多分関連があるだろうと思うんですが、先ほどの廣田先生のお話に関連して、阿武山の高圧実験の研究がどのように広がっていったのでしょうか。

島田:西武さんは物理学科の卒業で、地球物理とはちょっと違う研究をされていたんですが、地球物理の大学院に進み、「地球内部の物性の研究」という題目で博士学位を得ています。愛媛大学に移られてから、流体圧発生装置としては現在も世界最大級の能力を持つ高圧実験設備を作っています。この装置は西武先生のお弟子さんや入舩さんのグループによって、地球内部物性の研究にも使われています。川井先生は京大地鉱教室で松山基範先生のお弟子さんだった人で、岩石の微弱な磁化の測定で業績を挙げ、松山期よりも新しい年代における逆磁極期の発見に貢献しました。阪大に移られてから、川井式マルチアンビルセルと呼ばれる高圧発生装置の開発に成功し、高圧条件下における岩石の相変化と地震波速度の不連続面とを関連付ける業績を挙げました。川井式マルチアンビルセルは安定性に優れており、ダイアモンドアンビルセルと並び、現在でも高温高圧実験のための重要な装置として用いられています。


[資料保存(1)−古いものをどう残すか]

津村:私は東大地震研究所で古い資料をいろいろ整理してきたんですが、もともとは理学部の地震学教室にあったものを、浅田先生から電話があって、古いものを収容している倉庫を取り壊すので、欲しいものがあったら何でも持って行ってくださいということでした。一番重要だったのは、一部屋いっぱいにぎっしり積み上げられていた明治時代からの煤書きの地震記録紙でした。そのほか、いろいろな書類もありました。それらの資料は幸いなことに地震研究所で重要性があるということで保管されて来たんですが、だんだん重要性を理解してくれる人も少なくなってきて、危機にさらされています。1つは原記録の保存の重要性ということですが、もう1つは、例えば震災予防調査会に報告が出されている記録のもとになった大森房吉の原稿とか蒐集した資料とかをどの程度残すべきかかということですね。その重要性について理解をしている人がほとんどいなくなってしまいました。京都大学でも地球物理学研究が百年ということですから、資料をどうやって保存すべきかということは重要な問題だと思います。

福田洋一:京大の地球物理学教室は、理学研究科の一連の耐震改修工事に関係して、今年の5月に1号館に引越しました。そのときにスペースの関係もあって、1号館に全部を持ち込めなかったので、かなり処分しました。一部は阿武山観測所に引き取ってもらっています。何を残すべきかについては、なかなか判断がつかないところがあります。比較的新しいものはまあいいのですが、古い資料のなかにはすでに廃棄されてしまっていて取り返しのつかないものもあります。資料の保存についてはスペースの関係もありますが、このあたりは京都大学全体としてもう少し考えて欲しいと思います。また、もう1つは、ディジタル記録の保存の問題です。引っ越しのときに磁気テープも処分したのですが、このような媒体のデータはもう読めなくなっています。ディジタル・データの長期保存はなかなか難しい問題です。

徳田八郎衛:関連した意見の陳述です。京都大学の地球物理学教室が本部構内から北部構内に移転したのは確か昭和32年だったと思います。そのとき運んだ書類を整理する暇がなかったのか、昭和35年に荒木さんや島田さんや私が4回生だったときに、院生の先輩方の下請けで書類の整理をやりました。そのとき、現職の偉い教授のお書きになった私信などを見る機会があり、ちょっと興奮したのを憶えております。私、実は国会図書館から委託され、本来なら防衛省防衛研究所戦史部がやるべき史料分析作業のお手伝いをしています。もともと技術史には興味があったので協力しておりますが、これは意味がないから捨ててしまえとか、これは史料には物足りないが、ご遺族の皆様には意味があるから靖国神社の資料館に遺品資料としてお納めした方がよいなどと仕分けする仕事に関係しております。公文書ではなくて私信だけど貴重な文書であり、関係者も故人、つまり歴史上の人物になったから公表してもいいんじゃないかと考えて整理をしております。最近では、このような作業を歴史の長い建築とか土木とか造船などの学会が、新しいところでは電子情報通信学会も加わって、エンジニアサイドから、学会サイドから技術史を残そうということでやっておられます。一方、サイエンスの方では専門化が進むのと進歩が速いためでしょうか、歴史的資料の保存にあまり熱心でないような気がいたします。先ほど、現職の教官から古いものを保存する場所もないというお話が出ましたが、残念なことです。この前、引越しをなさったときに、私のように「光と影」の影の方を研究するのが好きな人間にとっては本当に面白い資料もずいぶん焼かれてしまったのではないかと思います。このあたりを皆さんぜひ考えていただきたいですね。また前総長にはその責任上(笑)、お考えいただきたいと思います。それから今日発表なさった先生方にお願いがあります。私は恩師の田村先生が亡くなられたあと、東京から長男を連れてお参りにいったとき、奥様がおっしゃることには、「うちの息子たちは誰も父親の仕事も趣味も継いでおりません。この本を全部もっていってください」。全部持って行けと言われても私のように「カミナリ」を商売にしているのではない人間にとっては恐れ多いので、昭和5年頃のカミナリについての本を1冊だけ頂いております。息子は汽車ポッポが好きで、田村先生も鉄道が趣味でしたから、鉄道の本を頂いて帰りました。ところで、今日発表なさった方も、総合討論の司会者も、同じような家庭環境にあられるのではないかと思いますので、これまで集められた貴重な本や資料をこれからどこに預けたらいいか、いまからお元気な間に(笑)、お考えいただきたいと思います。

荒木:はい。なかなか難しい問題だと思いますが、まずは、個人の持ち物をチェックしていただいて、そういう貴重なものがでてきたときにどうするかということですね。できれば、教室のなかにそういうものを保管する資料室みたいなものを作っていただけるとありがたいと思います。

尾池和夫:前総長というご指名がありましたので発言させていただきますが、1つは現物の保存というのは、大学にとってものすごく負担なんですね。博物館がそういう機能をもっているわけですが、このグループに関係することでは、地球物理学教室に所属していた工作室が取り壊されることになったとき、そこで使われていた機械を何とか残したいという声があって、いろいろ検討しました。この場合は、大学で古い機械を大事に扱って、長期間にわたってだましだまし使ってきたということが、逆に機械の歴史を知るうえで非常に値打ちがあるということになって、京大の博物館に保存してもらおうとしたのですが、当時の館長が難色を示してなかなかうまくいきませんでした。そこで東京の科学博物館に話をもちかけて、そこのつくば倉庫にいま預かっていただいています。しかるべきところにしかるべきものが結構あるんですね、土地のあるところには。そういうところをうまく探し出して、うまく話が合えば保管してもらえることになると思います。それから、標本というのも、もちろんそうですし、京都大学博物館でも自然史に関係する植物、動物や鉱物の標本を大量に保管していますが、とにかく壮大な倉庫が要るわけですね。展示しているのはその1部で、倉庫には膨大な量の資料が保存されています。この研究所の隣にあるのは国会図書館の関西館で、見えているところはただのハコだけですが、その地下の6階くらいまでものすごい大きな倉庫があります。なかなか整理が追いつかないようで、長尾先生が今その問題に挑戦しています。印刷物は全部預かるというのが国会図書館の方針であるにもかかわらず、印刷されないデータがいっぱいでてきているわけですね。そのほとんどが収集できないという状況で、実際問題としてどこかに行ってしまったり、また出版はされているんだけれども保管できていないという場合もあったりして、それをどうしようというが問題になっています。まあ、公文書館もそうですが、保存の問題は新しい問題になっています。それから古いものに関して、お年とともに消えていくということは本当に京都大学として残念なことですね。そこで私がやってきたのは京都大学のアーカイブセンターをつくるということで、スタートは写真なんですが、フィールドワークの研究の貴重な写真とか動画とか、そういう各先生が個人的に保有していて分散していていた原資料をいろいろ集めて、一括して保存することを始めました。川端通に稲盛財団記念館がありますが、これは京都賞のデータなどを保存しようということもあって作っていただいたものです。そこにアーカイブセンターがあります。そこにはフィールドワークの資料などを収納しようという方針で臨んだのですが、委員会で議論していただいた結果、京都大学のさまざまな研究資源、すなわち写真、映像、音声、フィールドノート、実験・観測データなどの原資料を「研究資源アーカイブ」として組織的に蓄積・保存し、教育・研究資料として再活用を図ろうということになりました。そこで、先ほどの地震の記録なども多分、保存の対象として考えられているはずであります。もう遅いものがあるかもしれませんが、地球物理学のグループとしてもそういうものをできるだけ利用したらよいと思います。体制だけは大分整ってきておりますので、その運用面について地球物理の側からも働きかけをしていただければと思います。金森先生が京都賞を受賞された業績のなかには佐々式大震計のデータを利用した解析結果も含まれているということもあります。ほかにもいろいろあると思いますが、スペースの問題は改めて解決すべきということで、私がこの研究会に期待するアウトプットの1つとしては、今日のお話に出てきたデータ系資料の保存の方針みたいなものを国に提言する報告がまとめられればよいということです。

荒木:どうもありがとうございました。ほかに何かございませんか。

尾池:もう1つだけ、先ほど廣田先生がおっしゃったことに関して付け加えさせていただきます。20世紀の前半というのはわが国が非常に勢いをもってヨーロッパに追随していった時代なんですね。1901年にレントゲンが最初のノーベル賞を受賞していますが、その原理がわかってすぐに京都の島津製作所がX線装置の開発にのりだして、実用化しております。そしてノーベル賞の授賞式のときにはもう日本では商品をして売り出すところまでいっています。それぐらい早いスピードでヨーロッパの技術を吸収しているんですね。また、湯川秀樹さんがノーベル賞を授賞した論文を書いたのは1930年代ですが、そのときだって湯川さんは自分のお金をものすごくつぎ込んで、ヨーロッパから本を直輸入で買い取り、それを読んで最先端に追いつく仕事をしているわけです。その時代に、とくに物理の関係のところにはそういう雰囲気があった。そこに地球物理も物理学第一講座という形で加わった。それは大学全体の話ですね。そこから地球物理学教室が独立して独自の発展を遂げる。そのなかで地球物理が物理学をリードしてきた時代もありました。第6代京大総長の山川健次郎先生は日本人で物理学と名のつくところの最初の教授になった人ですが、そのあたりが作った流れが京大の物理にものすごく効いてるわけで、日本の状況がどうだったかということよりも、むしろヨーロッパの先端の物理学の流れがどういう状態にあって、それを物指しとして、その時代の京都大学がどうであったかという見方をしていった方がよいのではないでしょうか。ウィーヘルト地震計がどうやって日本に入ってきたかなどにも興味があります。いまものすごく巨大なマスをもつウィーヘルト地震計が世界で3台残っているんですが、それがドイツとメキシコと中国の南京にある。3つのうちの1つがアジアにあったりするということも面白いですね。そういうなかで、大型のウィーヘルト地震計が何台も日本に入ってきているという、そんな歴史があるわけで、ヨーロッパの流れを物指においといて、それに対して京都大学がどういう対応をしてきたかという、そういう比較をした方がよいのではないかと思います。一番最先端なものに追いつこうということを急ピッチでやっていた時代ですね。


[資料保存(2)−阿武山観測所など]

川崎一朗:1990年に京都大学の地震関係を防災研に統合したとき、暫定的に、阿武山観測所は、その使命は終わったということになりました。地震予知研究センターでの議論の上、今年から、観測の拠点として再活用することになり、4月からは飯尾さんが阿武山観測所勤務になりました。営繕などの予算の問題とか、いろいろな問題がありましたし、また、マスコミの注目を浴び、「満点計画」とも絡んで新聞にも出ましたが、この様な話は別の機会にしたいと思います。阿武山観測所には、ウィーヘルト地震計、ガリツィン地震計、佐々式大震計、佐々式強震計、プレス−ユーイング型長周期地震計など、多くの歴史的地震計がありますが、これまでに伊藤潔先生や技術職員の伊藤勝祥さん・浅田照行さんが中心になって、外から訪問して来られた方にもわかるような説明も付けて整理してくださいました。不十分とは思いますが、このように資料保存への努力は続けられております。また、記録については、梅田先生が大分前から記録の写真を撮るという作業を続けてこられましたが、これについては梅田先生から直接お話していただいた方がよいと思います。

梅田康弘:阿武山にあった古い記録で1935年からの機械式地震計の煤書き記録をマイクロフィルムに残すことを十数年前にやりました。それから4年ほど前に地震予知振興会がそれらを全部ディジタル化されました。

島田:上賀茂の記録も阿武山にありましたね。

梅田:あれはやってません。

伊藤 潔:阿武山に保管されている上賀茂の煤書き記録も、地震予知振興会でディジタル化されました。

津村:いま地震予知振興会では、大学関係の古いところでは京大の上賀茂観測所と東北大の向山観測所の地震記録をスキャナーで読み取って、ディジタル化しています。例えば関東地震の場合など、気象庁は本震の記録は残しているのですが、余震の記録は全部捨ててしまっているんですね。上賀茂と向山には関東地震の余震の記録が残っているのでそれをディジタイズしています。

梅田:関東地震のころに島原でも地震観測の記録がありますね。

須藤靖明:京大では1922年の島原地震の直後から島原でウィーヘルト地震計を用いた地震観測を始めていますので、そのデータは阿蘇にあります。1923年の関東地震のときに、本震では地震計の針がとんでしまいましたがすぐに修理して、関東地震の余震のデータは残っています。


[研究会のまとめと今後の予定について]

加藤:京都大学の地球物理学研究は、地球物理学教室だけで行われてきたものではなく、防災研究所もあるし、私達の分野で言えば工学部の方から発信しているものもある。また、昔は天文関係の人達も随分地球物理の研究をやっていた。そんなわけで、日本全体を考える前に、京都大学のいろんなところでやられた地球物理の研究にも目をやってほしい。

竹本:まず、本日の集会のプロシーディングスをどうしようかということを発表者の間で話をしたのですが、発表に使われたパワーポイントのファイルと所長挨拶並びに総合討論の内容をテープから起したものをまとめて、地球物理同窓会のホームページの下に貼り付けさせてもらうということで、田中寅夫同窓会長のご了解もいただいております。そこで、皆さんのご異存がなければその方向でまとめさせていただきます。次に研究会の今後の予定ですが、私としましては、この1回だけで終了するのではなく、今日お話に出ましたように、日本の地球物理学、世界の地球物理学の流れのなかで、京大で行われてきた研究がどのような役割を果たしてきたかなどの観点から、今回漏れた研究分野も含めてもう1回はこれまでの歴史を振り返る研究会を開催し、そのあとに現役の皆さんを中心にして、現在の到達点と今後の方向性をまとめていただく研究会を開催できたらよいと思っております。過去百年の研究を振り返るとともに、今後百年につながる研究展望が見えてくるといいなと思っています。



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