IIAS竹本修三フェロー研究会「京大地球物理学研究の百年(その2)」(2009年11月7日)


京大地球物理学教室初期における教授群像
―事実の積み上げが研究の真髄―

加藤 進(1952卒)



はじめに

 私は学部学生として3年間(1949−1952)、大学院生として3年間(1952−1955)地球物理学教室に属していた。大学院では長谷川万吉教授研究室で暮した。この6年間、長谷川教授(地球電磁気学)の他、佐々教授(地震学)、滑川教授(気象学)、西村教授(測地学)、速水助教授(海洋学)が教室の研究のボスであった。彼らの人物像を、ここに紹介したい。若い時代、しかも学生として、感じたものに基づく人物像なので、可なり独善的かもしれない。長谷川先生は私を太陽族と呼んだ。当時、ベストセラーになった石原慎太郎著「太陽の季節」に描かれていた人物像がモデルだ。
 旧い習慣に従わない、教授にでも面と向かって、自分の意見をはっきり言う若者を意味していたらしい。確かに長谷川教授室に現れ、意見を主張したが、これは、今では当たり前の態度だろう。ただ、今と違って、教授先生も 多忙ではなく、長い時間、学生個人と話し合うことができた時代であった。おかげで、先生方から心に残るお言葉も頂いた。そして先生の仕事に、批判的批評も出来た。以下に、思いつくまま、順不同で諸先生の人物像をエピソードを加えて紹介する。

長谷川万吉先生:

 大学院生になってから、初めて、親しく先生にお目にかかった。学部時代から先生の研究室に配属されていたが、先生は病気(記憶によれば盲腸炎)あがりで、先生にお目にかかれなかった。そのためか、地磁気の講義は太田講師によるものだけだった。講義の殆どが、地磁気変動の等価電流系の話で、物理学としての興味が湧かず失望した。長谷川先生の最高のお仕事は、静穏日変化場Sqの等価電流系渦の中心が日々緯度変動する有様を明らかにしたことだ。しかし変動の原因についての理論的説明はない。それを指摘し、先生を困らせた記憶がある。
 だが先生の仕事は、電離層電磁力学研究の源泉となった意義はとても大きい。後、佐々先生からだと思うが、まず、黙って、事実を明らかにする研究が京大学派の真髄と聞かされた。万葉集には「事挙げせず」とあり、これに繋がる日本の伝統かもしれない。これも先輩から聞かされたことだ。

佐々憲三先生:

 学生、門下生には、暖かいボスだった。1回生の夏休み、アルバイト報酬が素晴らしい仕事を頂いた。宿屋に滞在し、3食付(昼は弁当)で、数週間働いたアルバイト報酬は一ヶ月の生活費に近かった程だ。和歌山市には、戦争の空襲による焼け跡が広がっていた頃だ。新都市計画に必要な地盤調査を依頼された佐々先生が、研究室メンバーに命じ、爆薬を用いた人工地震法で地盤調査をおこなった。この仕事を手伝うアルバイトだ。貧しい学生には、まさに有難いアルバイトであった。
 さて先生の講義で心にのこったものがある。それは先生の講義の次の一節だ。「地震学を弾性力学の応用だと考えるのは、根本的に誤っている。地球を弾性体とするのは仮定で、この仮定は多くの場合間違っている。・・・・現在、地震予知など不可能だ。観測事実を積み重ねて行くだけが、地震学研究の正しい態度だ」。
 長谷川先生の仕事からも窺えるが、「この事実の積み上げ」こそが、京都学派の真髄らしい。

滑川忠夫先生:

 先生の「気象力学」はとても面白いと、先輩から聞かされていたので、当時、先生の下におられた中島講師に決まっている講義を変更して、滑川教授の講義にして頂いた。先生の物理的説明は明快だった。煙草を吸いながらの講義だったと憶えている。
 だが、先生の最大の研究業績である副台風論の評価は高くなかったようだが、専門外の私はよく分からない。先生自身も言われていたが、元々1つの台風が、2つに分かれ、副台風が発生するのだが、分かれ方を決める根拠がはっきりできないので、理論とは言えないらしい。これも、「事実の積み上げ」を待つことが理論構築には不可欠であるとの教えかもしれない。

西村英一夫先生:

 先生は学生に対してとても優しかった。正面から学生を叱ったりしない。学生の言うことにもはっきり反対しない先生だ。
 学部時代、私は専ら数学教室、物理学教室の講義に出席し、地球物理教室の講義に出席する時間があまりなかった。予め、これを先生に断って置きたいので、先生の教授室に伺った。 先生は、「それで結構ですよ」とすぐに認めてくれた。
 でも、私が欠けた少数の出席同僚に 「加藤君が思うように、数学、物理学の講義が地球物理学研究に直ぐに役立つとは思えませんが・・・・・」と言われたと、出席した同僚から聞いた。
 2回生の夏休み、先生から薦められ、生野鉱山の地下深く入り、宇宙線の測定に参加した。この観測目的は何であったか、はっきりした記憶がない。恐らく、先生の興味に沿った地球潮汐観測だったかもしれない。この時先生と一緒の泊りがけの旅行で、先生の優しさ、包容力を感じた。先生も静かに事実を積み上げるタイプの研究者だったのだろうか。

速水頌一郎先生:

 私が学生だったころ先生は助教授だったが、教授がいない海洋学研究室のボスだった。しばしば長谷川先生の教授室に来られたのは、形式上、長谷川先生が海洋講座の担当教授だったからだろう。
 当時乱流論に興味を感じていた私は、乱流論に統計力学を適用できないとの先生の悲観論がなぜか記憶に残った。あるいは乱流の観測事実は、理論構築には不十分だと先生は考えておられたかもしれない。
 1955年秋、私は工学部電子工学教室に技官として雇われたので、その報告に伺うと、先生が言われた言葉を今でもよく憶えている。それは「工学部では、理学部と違い、体を動かす仕事が多い。これが君に合っているかどうか、考えておくのがよいだろう」。この時、工学部で私のキャリアを試してみようと心に決めた。



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