研究会『京大地球物理学研究の百年』
所長挨拶  尾池和夫



 皆さんお早うございます。国際高等研究所の所長をこの4月から務めております尾池でございます。すでに何回か来られた方もいらっしゃいますし、また、初めての方もたくさんおられるようです。暑いですが、休み時間などを利用してちょっと外を散策していただきますと、こちら側のサイトに裏千家の茶室があったりします。また、所長公邸と称する立派な屋敷があったりするんですが、いまは使っておりません。またいろんなことで皆さんにご利用いただけるのではないかと思っております。
 いま、国際高等研には450人くらいの研究者が所属しておりまして、適宜いろんな研究会なども開かれています。大学の先生が多いですから土曜日は開いていて、日・月曜日は休むというシステムをとっております。たくさんの方が来られて、いろんな研究をなさっていますが、ここでは主に学術の芽を出すということを目的としております。これが次第にまとまってきますと科学研究費の申請などにもつながるという、そういったことをやっております。
 今日は、竹本先生が非常によい企画をしてくださいまして、京都でどういう風に地球物理の研究が始まったかとかいうお話がいろいろ出てくると期待しておりますが、そこに至るまでに、寺田寅彦あたりから話が始まるようです(笑)。寺田寅彦さんは、私も高知の出身ですが、高知で育った人で、俳句を詠んでいたり、いろいろなことをなさっています。災害に関する俳句も多く、そこに季語をどういう風に災害と結びつけて詠んでいるかなどについて、ときどき勉強させてもらっています。
 さて、歴史を振り返ってみますと、そもそも地球物理学がどこから始まったかはなかなか難しいのですが、私は地震学をやっていて、地震学の辺は割合よくわかっています。まず、1877年に東京大学(その後の帝国大学)が設立され、そこから物事が始まりました。外国から御雇学者がたくさん来ましたが、彼らは地震の多いのに驚いたようで、1880年の横浜の強震を契機として、日本地震学会が設立されました。もちろん気象や海洋やその他の学問はずっと昔からあったわけで、また測地学はもっと古い時代までさかのぼることができます。地震学は、それらの学問に比べるとずっと新しく、この研究会の趣旨に一番関係するのは、1891年に起こった濃尾大地震のあとで文部省のもとに震災予防調査会が発足したことです。そこから日本の地震の組織的な研究が始まりました。
 この震災予防調査会の発起人が菊池大麓さんなんですね。菊池さんは1909年に第3代の京都大学総長に就かれて、そこで志田順さんを東京から招きたいということで手紙を書きました。そしてその年の9月に、志田さんは、物理学第一講座、そのときは理工科大学に属していた講座ですが、そこの助教授として赴任され、1913年に教授になりました。その後、1918年に地球物理学一般講座、いわゆる第一講座ができて、さらに1920年に地球物理学教室が独立したという歴史をたどることができます。菊池大麓さんが震災予防調査会の発起人だったということが、総長になったときに京都大学で地震学の研究を始めようと決心した1つのきっかけだったと思います。
 この前、竹本先生とちょっと話していたんですが、面白いのは、京都大学は部局の自治を非常に重んじる大学なんですね。今はちょっと知りませんが(笑)。それはまあともかくとして、そういう伝統がこれまでずっとあったわけですね。ところが菊池総長の時代には、分科大学があってそのうえに帝国大学があり、それを統括するのが総長でしたが、その総長が分科大学の講座の人事を直接やっているんですね。総長本人が、新進の研究者に「お前、京都に来て地震計や傾斜計の面倒を見ないか」などという手紙を出して、分科大学の講座のポストを埋める直接のアクションを起こしているわけです。これは今とはものすごい違いですね。このあたりが大学自治の歴史や学部自治の伝統の背景を考えるうえで面白いなと竹本先生と話しておりました。京大の地球物理学研究の歴史を調べるときに、その背景にあるこういった事情にも目をやると、大学の自治や学部自治の成り立ちがわかってくるかも知れません。私も、その辺の背景の方を沢柳事件の影響なども含めて、もう少し調べてみようかなという気がしております。
 それから1920年代は第一次世界大戦後の国の成長期で高等教育拡充計画のもとに大学の学生数がわーと増えました。それまでは帝国大学のなかで、理とか工とか、それに法とか、大体一文字で表される学部ばっかりだったわけですが、それ以外にいろんな学部がだんだん増えていったときです。1923年には関東大震災が起こりましたが同期的に国の成長が図られ、1925年には京都大学の時計台が建築されました。この建物は、建築学教室の初代教授の武田五一さんが設計したもので、当時最新の鉄筋コンクリート構造が採用されました。ここから耐震という問題も出てくるわけで、この建物は、2003年に外観を保持したまま耐震構造になるように改築されました。
 そのころに志田順さんが計画した建物が続々と出てきますが、1923年に別府の地球物理学研究所、1928年には阿蘇の火山研究施設、次にできたのが阿武山地震観測所で1930年に完成しています。そういう時代だったんですね。そこからいろんなことが始まっています。関東大震災の頃にできた建物ですから、防震対策がしっかりしているかと思ったのですがそうでもなくて、後になって免震構造にするのに大分お金をつぎ込みました。まあ、こういう施設で行われた研究がこれからこの研究会でいろいろ語られると思います。
 時間が来たようで、簡単ですが歴史の前史の部分をちょっと語らせていただきました。実はこの研究所は土曜日も活動しているので、お客さんがあるとときどき中座させてもらいますが、できる限り研究会のお話を聞かせてもらおうと思っています。 今日はどうもありがとうございました。



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